安全、安全、そのまた上にまた安全。

コロナの影響で、学校の行事も親の参加が許されなかったり、学年によっては親は1名だけ見学が許されることになっていたりします。正直、意味がわかりません。どうしてですか?と尋ねても、おそらく納得のいく答えを示してくれる人などいないでしょう。自分に火の粉が降りりかかることのないような、この程度なら大丈夫かな?みたいに感じで決めたことのように思えます。今後の指標となる正解を導き出そうという意思などは感じられません。誰も責任を取りたくはないのですね。
生きていけばいくほど現実というものを知り、経験というものが重なり、それってどう考えてもおかしいぞ、と思えることが増えていきます。どうしてこういう約束事になったのか?という疑問ばかりが増えていきます。それはおそらくありとあらゆる事がこんな風に、誰も責任を取らずに済むようにされているからだと思えます。
建築における「安全」について考えてみます。先日たまたま同じタイミングで2つのリフォームを依頼されました。どちらも大手のハウスメーカーが30年ほど前に建てたもので、請け負ったリフォームはほぼ構造だけを残したフルリフォームでした。驚いたのは、その両方の構造が、現状の構造の半分ほどの内容だったことです。30年前の規制で建てられたその大手のしっかりとした家は、我々が解体を行うまで何の問題もなく家として安全なものでした。いまそれを建てるとしたら何倍の鉄骨やコンクリートが必要になるのは否めません。しかし、では家として安全なものとは根本的にどれくらいの構造内容であれば良いのか?という疑問には、誰も明確に答えていないのではないか?と考えられます。さもなくば、安全という基準がどんどん上乗せされているのでしょう。つまり、安全の上に安全を足す、そのまた上に安全を足す、そしてそのまた上に安全を足す、そんな流れが現在に至り、それは未来永劫に続いていく、と。もう、きりがないですよね?そのためにどんどん構造材が必要になり、大工の手間が増えていき、ひとつの家にかかるコストがどんどん上がっていくわけです。それって、おかしくないですか?とくに構造なんて家ができたら見えなくなるものはとくにお客様にとってブラックボックスです。現状の構造の半分ほどで今も丈夫な30年前の家は、その後の未来にメッセージを残しているはずだ、と私は思うのです。
私は家をつくる側の人間であるので現状の規制に沿った家を建てています。そうした上で、家に必要のないボリュームはきちんと計画をしています。お施主様に余計な負担をさせたくないのはありますが、それ以前の問題として、必要がないものは必要がないのだ、と普通に思うからです。
やれSDGsだ、なんて世間は言っています。しかし、決めるべき人間、責任をとる気持ちのある人間がいて、周りがそれで良しとして守る流れができないことには、家だけでなく何もかも、本当の意味でのSDGsは進まないのではないだろうか、と思います。