言い訳をすることは、内面の成長を止めてしまいます。逆に成長する人物はどうするか、というと、自らした行いの未熟さを恥じ、それを素直に言葉にして相手に伝えます。口先だけではなく、心でそれを感じて悔やみます。その思いはその先の自分の戒めとなり、思い出しては罪悪感をもって、二度とそういうことはするまいと思います。恥は層となって心の厚みとなります。
それを、成長した、といいます。
失敗は誰でもします。しかしその失敗を自分の未来の財産とできるかできないかは、ほぼ失敗した時の瞬間で決まります。言い訳から出てくる人物は何も学びません。やがてごまかす術だけ上級者になっていき、未来どころかどんどんと愚かな自分づくりのループに入り込みます。あろうことか、それが上手くいっていると勘違いを続け、歳だけ取っていくこともあります。自己肯定しかしない思考パターンが確立したら、その人にはおそらく永遠に成長しません。「またあの人の言い訳が始まったよ」だなんて言われます。悲しいことです。
なぜそういう話をすることにしたのか。それはオリンピックの柔道の審判員の言動にあきれたことから発しました。自分が選手に下した行いに、後になって、あれはそんなつもりはなかった、と言い訳をしたのです。そんなつもりはなかった、だなんていちばん言ってはいけない人が。その人にとって、おそらくその言葉を口にするのは初めてではないでしょう。
謝ったら負けという文化があるからか、どちらかと言えば日本より海外の方が、自己防衛としての言い訳があるように思えます。私たちは反省することを重んじる分、独自に技術や文化の成長がありました。今の、これからの日本がどうなのかはわかりませんが…
そうしたことからか、あるいはもはや時代が違うのか、今回のオリンピックは今までになく熱が冷めた、という人が多かったように感じます。その通りに、かつてに比べて純度=ピュアな感覚が薄れ、聖なる大会でありながら随所に逆のものを感じさせてしまうことが多かった気がします。