有名なジャズミュージシャンが、コンサートで自分勝手な暴走をしたドラム奏者の男子中学生に往復ビンタをした問題が取り沙汰されていました。
マスコミやワイドショーは一部の人を除いて一様に「体罰はいけない」「ともかく手を出してはダメですね」と言っていました。再三の注意に背いたドラマーに対するジャズミュージシャンの心情は理解しつつも、言っていることは「何はともあれ体罰はダメ」でした。
そんな中でダウンタウンの松本氏が面白いことを言っていました。「我々くらいの世代の人は体罰を受けたけど、今の時代はそんなことはあり得ない、とよく言います。でも、なぜ今の時代にはあり得ないのかという、明確な理由を誰も言ってくれない。なぜ今はダメで、昔はよかったのか?その明確な理由がわからない。」確かに私たちの時代はよく先生にひっぱたかれました。体罰はいけないかいけなくないかは別として、指導の一環としてさほど問題視されませんでした。「体罰を受けて育った僕らは、別にいま変な大人になってないし、屈折していない。何なら今の若者よりも常識がある気がする。どうも納得がいかない。」変な大人にはなっていないのだから体罰はわるくない、という論理は成り立ちませんが、私が同感したのは「体罰がなぜいけないのか、明確な理由を今まで誰も言っていない」という点です。勘違いしないでいただきたいのは、私は別に体罰擁護派ではありません。ただ知りたいだけなんです、体罰がなぜいけないのか、を。
それは、ただのわがままな感情や直情で手を出すようなこともあって、それとの線引きができないから猫も杓子も「体罰はいけない」と括ってしまっているのかもしれません。でも、それでは体罰がいけないことの答えにはなっていません。仮に私が、我が子が聞きわけない戒めとして手を出したとします。その行為は、自分の感情だけのことなのか、それとも子供の将来を見据えてのしつけとしての行為なのか、第三者は判断ができません。判断がつかないから、とにもかくにも「手を出したら全部ダメ」にしてしまっているのかもしれません。
ただ、それは物事の善し悪しを先送りしているだけです。子供の非理知的な行為をその瞬間に見過ごしてしまったり、心に響かない説教で終わらせたとしたら、理解力に限界がある子供の心に、本当に伝えたいことはどこまで響くのだろう?とも思います。大切なのは、その教えが将来へのものへと続いていくことで、それができているのかどうかが肝心です。今、その子がわかることなく、心境に変わりがなかったら、将来、その子にはもっと手痛いしっぺ返しが来るでしょう。それはもはや親や先生からのものでなく、社会からの痛烈なしっぺ返しです。平気で他人を傷つけるかもしれません。だから心を鬼にする、そしてもちろん加減をする。ひっぱたくことが目的ではないから。いつも自分を守ってくれる人が、こんなにも怒っている、どうして?…そういう風に心に響いて欲しいからです。刹那な気持ちで、最も憎まれたくない相手に選択した苦渋の手段です。なのに、もしもそれを見ていた第三者がいて「キミキミどんなことがあろうと体罰はいけないよ」なんて言って来たとしたら、やっぱりその大人はダメなんでしょうか?そういう親は先生は、やっぱり「何はともあれとにかくダメ」なんでしょうか?
途中から読まれた方のためにもう一度言います。私は別に体罰擁護派ではありません。ただ知りたいだけなんです、体罰がなぜいけないのか、の明確な理由を。