エバーグリーンホームは来年の4月をもって満22歳になります。しかし私にとって「22」という数字は、何かネガティブな感覚をはらんだ数字です。22才の頃にネガティブな変化があったので、そのトラウマなのかもしれませんが。そういえば昔「22才の別れ」なんていう歌がありました。私だけでなく、「22」って多くの人に嫌なことが起きるのでしょうかね?「22才の別れ」は皆が知っているものだと思っていましたが、先日30代の人間に言ったら「何ですかそれ?」みたいに返されてしまいました。世代が違いました。笑
「22」という数字にある種の危機感めいた感覚を秘めている私としては、周囲に起るさまざまな出来事についての因果関係を嫌でも感じてしまいます。今年だけでも芸能、社会、政治…多方面でいろいろなことがありましたが、それらをひと言で要約するとしたら「既得権益の崩壊」です。当たり前のことがもはや当たり前ではいられなくなり、変化を求められています。今ある自分にあぐらをかいていたら、あっという間に足元をすくわれる状況です。昨日そこにあって、明日も明後日もそこにあるだろうと思っていたものが、突然に目の前から姿を消します。この感覚は何なのでしょう?
否、ひょっとするとそれは年齢を経た故の出来事なのかもしれません。居酒屋でいつもそこに居るのが当たり前のような旧友が死にました。そういう喪失感は年齢のなせる技なのかもしれません。だからこそもうすぐやって来る「22」という数字に気をつけたくなっているのかもしれません。私は、その今は亡き旧友にはかなさと同様に憤りのような思いも感じています。人間は自分のために生きているのと同じくらい周囲の人間のためにも生きているのですから、自己管理はしなくてはいけないし、自己管理を怠ることは他人思いではなく、自分勝手だ、ということになります。本来は、自分を思って「死にたくない」と思い、他人を思って「死んではいけない」と思わなくてはいけないのだと思います。万策を尽きてではないだけに「なんで死んだんだ、あいつ」という置きどころない感覚を背負っています。いなくなったところで困るとか、私の人生がどうにかなるという死ではありません。ただ、心には、喪失感とか、もっと何とかできなかったのかという憤りのようなものが沈殿しています。それも「22」の呪縛なのだろうか、といぶかってしまいます。。
私としてはできることをやり、これ以上「22」の呪縛がないように努力をするしかない、と思っています。エバーは何とかスケールアップしてこれたことから、責任の構造を分散してきましたが、それも見直す時が来ています。そこに矛盾した既得権益が存在していて、あるいは時代遅れとなった既得権益が摩擦となって、そのことで会社やお施主様にとってのマイナス要因が生まれているかもしれないからです。知らず知らずあぐらをかいているかもしれない自分への戒めと、大切な何かを失うことのないように、気をつけようと思います。その上で先々に事なきを得たのなら、それで良しとします。