エコロジーの憂鬱

日本は「洞爺湖サミット」において、自国の優れたエコロジーへの取り組みを世界にアピールをしました。
今日に至るまでの日本の文化、叡知は他の文化圏に類を見ないほど素晴らしい、建築においてもこれは確かなことです。そして、これからは消費主義的なスクラップ&ビルドの時代から、長寿命、エバーライフの発想へ。素晴らしいことです。個人的にも大いに賛同できます。

高い理想を掲げることから、つねに歴史は動き、そして世界は変わってきました。
では、その理想に向かってゆくための、歩き出しに何をすればいいか。ひとつは、問題のある現実を修正していくことです。間違っていることを間違ったままで理想に向かっていったところで、ずれた方向にしか向かわないし、それはへたをすると取り返しのつかない結果になります。そして、現状の日本はその危険を大きくはらんでいる。そう思えます。

業界は、長寿命住宅のための技術開発が一種の流行と化しています。
たとえば、電気系統のメンテナンスをシンプルにするための壁内の新設計に着目することなどは、不具合を容易に改善することで、長く住むためのモチベーションを維持するための工夫です。それらあらゆる工夫や技術が各社で編み出され、大手でパッケージング化され、「000年住宅」のごとく気の利いたキャッチフレーズで国民生活に提案されていきます。皆が、理想のもとに涙ぐましい努力を重ねています。
しかしそれらの努力は全て、エコロジーの発想が成熟していない現行法上でできる範囲に限られているのです。時には現行法が枷にもなり、理想を邪魔することもあります。防錆の取り方、耐震性の取り方、エネルギーロスと気密性の問題、矛盾を山積みに抱えた現状で、今かろうじてできることは何か、と頭を抱えながら、私たちは理想へと向かっていかなければならない、そんな難儀な状況です。ぶれたルールの上で、必死にあがいているのです。

私だけでなく、多くの建築家が、この現実と理想の差に矛盾を感じ未来に少なからず閉塞感をもっているはずです。

昔、日本には「牽き屋」という職業がありました。古くなった家の基礎部分を新たに作り直すために、上にある家を基礎から牽き離す職業です。基礎さえしっかりしていれば、家というものは修繕を繰り返していけば長生きできる、そんなことを物語っています。
現代の家に置き換えた場合、それをそのまま当てはめることは乱暴かもしれません。
けれども、エコロジーの本質を推進していこうというのならば、21世紀にふさわしい牽き屋的発想が「ルール」となり、全うな現行法のもとで、我々民間がひとつの「理想」に向かって安心して切磋琢磨する。これこそが「理想」であると、私は思います。