エバーグリーンホームの行方 (続)古民家で過ごした時間

昨年から、エバーグリーンホームのスタッフは、休日に出かけられる者だけで、とある古民家の茅の葺き替えを見学させてもらっています。 (前回のリポートはこちらへ)

古い茅の取り払いは並大抵の作業ではなく、ボランティアも含め数人の職人が幾度も現地へ通いながら進めていきます。我々も微力ながらできることは手伝い、できないことは見守りながら、古い日本家屋に凝縮された知恵を吸収しようと努めています。 ある時、ふと猪狩が気づきました。

「どうしてこんなに埃まみれなのに、誰も咳きひとつしないんだろうなあ」

そう言われると、そこにいるもの全員が古くなって外される茅の粉塵にまみれているのに、咳きどころか咳払いひとつしていません。古い茅葺き家屋は、囲炉裏でいぶして天井の害虫を殺すというかつての日本人の叡智で成り立っているわけで、天井の茅は害虫の死骸や時とともに堆積する粉塵の巣窟であるはず。実際に外される茅からは死んでダニやゴキブリの死骸、長年のほこりが嘘のように出てきています。

スタッフの娘さんも連れられて来ていました。小さな彼女はかわいそうに喘息をもっているのですが、そんな彼女でさえ咳きひとつせずに、ほこりの舞う庭先で元気に走り回って遊んでいます。化学製品に囲まれたふだんの生活で時おり苦しい思いにさらされている彼女も、自然に恵まれた古民家のもうもうとした埃には、体がNOと言っていないのです。いつしか人々は、この古民家のような生活に、ずいぶんと沢山の大切なことを置き忘れたまま進んできたような気がします。
(エバー広報部)

 
~本質をとらえるということ。

「シンプルモダン」の時代から、次へとリセットする時が来ています。
そして、「家」「暮らし」をもういちど根本から考える時期なのではないかと感じます。家づくりはとかくデザインに言及してしまいがちです。しかし、そもそもデザインとは機能から発生すべきものです。古民家を訪れて思うこと、それは囲炉裏があって、茅があって、それぞれが連係して素晴らしい働きをし、その存在をデザインとして考えた時にはじめてそのかたちが美しいということ。誰も咳きひとつなく過ごしていたことに、現代社会の病、人間が弱くなってしまった故に生じてきた問題を感じます。ホルムアルデヒドの存在を例にするまでもなくハウスビルダーが少なからず直面 してきた問題。それは食生活や環境からくる免疫力の低下から、起きるべくして起きてしまったことではないだろうか。であるなら、ハウスビルダーはこれからのそういった問題に、事が起きてから対処するだけでなく、先んじて何をすべきなのか。

~疑問をもつということ。

最近の耐震強度偽装問題。それは組織の問題以前に家づくりに携わる職人ひとりひとりの気質の問題です。やるべきことを普通にやらなくなっている。そのことに気づいていて悪意をもって、ではなく、おそらくもっとひどくて「麻痺」しているのでしょう。麻痺しないでいくためには、家づくりを仕事として受けるだけでなく、しっかりした考えをこちらの方から発信する自覚がなければならないと思います。
エバーグリーンホームの仕事はアートではありません。建築屋ではあるが建築家ではありません。けれどもそう考えてしまうことで発想や行動を狭めてしまっているところもあるのではないだろうか。何の疑問ももたずに間違った方向に進んでしまうこともあるのではないだろうか。さらに喜ばれる家を、思いをかたちにするために、家づくりだけ考えていてはいけないのだと感じます。影響を与えてくれるたくさんの人に会いに行き、その時その時で何をすべきかを常に考えていかなければいけないのでしょう。
今年は、エバーグリーンホームの確固たる方向性、その基礎をつくる年にしていきたい。そんな強い意識が今、スタッフのひとりひとりに、さまざまな形で生まれているような。そんな気がします。

—–受動ではなく、能動。

(猪狩裕一)