作るのでなく、創る

今朝、朝のワイドショーで熊本のとあるベテラン建築士が、例の強度偽装問題の余波を受けて番組に糾弾されていた。彼は名だたる国際資格を持ち、確かな技術と信念で建築に携わってきたにも関わらず、昨今の耐震検査ソフトを使った判断で基準以下とみなされ非難を受けていた。長年の経験に裏打ちされた本人による数値では基準に満たしていると堂々と言い切っている。彼は自らをやり玉 にあげた市に対し、猛烈な抗議をしていた。なんだか、画一的なものさしで良いか悪いかだけを決めているようで、私はちょっと途方にくれた。彼は世間が優秀だと認めた人であり、その証しもある。実績も信念ももちろんあるはずだ。であるなら、例の作為的な建築士とは話の筋が異なるはずなのに、まるで「同じような奴がここにもいる!」と魔女狩りのごとく噛みつかれている。 本人だって怒るのは当たり前だ。私は私で、スケープゴートを傍観しているような無力感を感じる。今回の一連の出来事は、基準値を上回るか下回るかで正と悪を決めて、はい終わり、というような安易な結論ではないと思う。 基準値だとかいうものさしは、それを遵守する側のモラルの一端にすぎない。正すべきは人の心にあるのだ。

エバーグリーンホームを、もっともっと良くするためにはどうすればいいのだろう。今年に入って、そんなことばかり考えている。本当の意味で、過渡期に入っているのだと思う。会社も、そして自分も。

会社を良くすること。そのためには、人が良くなっていくしかないのだと思う。人間は、よく試行錯誤を怠ける。たとえば交渉をスムーズにしたいがあまり、相手の要望を何の疑問もなく受け取って進行してしまうことだってある。なぜ「そういう決断をしたのか」と問う。「あの方の希望で」という答えが返ってくる。それは、自己否定だ。自分のビジョンを安易に曲げるということは、「ビジョンなんて最初からありませんでした」と言っていることと同じである。なのに、それにすら気づいていない。その「相手」がお施主様であったとする。「お施主さまに言われたから」という理由だけで安易に変えるなどという行為は、今までやってきた自分を簡単に否定することだし、そもそもそのお施主様のことを元から理解していなかったのではないか。どこのビルダーでもありがちなことではあるが、それではいけないと思う。これからは今以上にお施主様を大切に思い、理解し、本当の意味で親身になる、そんなビルダーでなければいけない。我々は誰もが、優れたひとりの人間として、より満足度の高い家を創造していくための誇りとプレッシャーを同時に感じていかなければならない。何も知らないからとたかをくくってお施主と付き合うハウスビルダーには、これからもなりたくはない。お施主様が誤った方向に行こうとしたら自分のことのように真剣にお施主様に議論するくらいの、そんなプロ意識とハートがあったっていいんだ。

エバーグリーンホームにいるもの全員が、今以上にプロであり、まっとうであるために。前号で申し上げたように、節目の時期にあることを私は痛切に感じている。私は、家をつくるという行為は、それを望む人のために、作るのではなく、創るのであると思っている。

(2月10日談)

 

写真は、昨年訪れたオランダ・ユトレヒト大学エデュカトリアムの内部。傑作と言われている。いかなるビルダーであっても、求める人に最高のものをかたちに。