別の国でやった方がいいんじゃない?

あと5年で東京オリンピックです。そこで例の新東京国立競技場なんですが、あれ、どう思われますか?私は正直「ウ〜ン…」と感じております。実際、世論調査でもさんざんなようですね。私には「ヤンチャな方々が乗ってる車」のようにも思え、あるいは「ガンダム?」、あるいは懐かしのアニメ「マッハGOGOGO?」とか。世界的に有名な建築家であるザハ・ハディッド氏によるものなのですが、なんか違和感を感じるのです。今は21世紀の日本です。高度成長期の如く国の勢いを海外に知らしめる必要がある時代だったのならわからないでもないです。しかし、あんなの今作るのって、どうなのかな?と。海の向こうの、飛ぶ鳥を落とす勢いのあの大国なら、有りでしょう。「どうだ、オラの国すげーだろ!」と大声を張り上げればいいです。でも、どうして今の日本であれなの?と思ってしまうのです。

そして、当初の試算よりさらに900億円かかります、とか、もう訳が判らないです。見積り取ったら柱がとんでもない値段だってわかりました、とか。デザインのこと、お金のこと、いったい誰がわるいのでしょう?元都知事の某○しはらさんとか、有名建築家の某○んどうさんとか、そういった当事者のお歴々は、当事者としての責任はどうするのかな?その辺りが一般的には曖昧です。

そこで考えてみました。あれは、建築家とクライアントがするやりとりではないのではないか、と。これは、芸術家とパトロンがするやりとりではないか、と。そうであれば合点がいきます。我々の仕事はこんな「あなたの希望するお宅を予算内で作ろうと思いましたが、実際にはこんなにかかるみたいで、だからあと倍ください」なんていうやり方をする人はいません。提示される予算の範囲内での現実的なプランを提示する、というのが原則です。世界が違うとはいえ、予算の算出が想定できにくいものであっても、「前例」とか「相場」とかいう物差しはあるだろうわけで、それを気にしないで「作りたいものを作ります」というところから始まっているというのは、これはもう間違いなしに道理が違う、世界が違う、と思えてしまうわけです。

一般的な建築業界にだって、予算遵守の原則とは例外の行為というのがあります。それは、クライアントに予算の振れ幅を感じる場合です。そうした時は、こちらの見極めで「ランクアップした予算のランクアップしたプラン」をお見せすることもあります。そういうクライアントにとって、予算は言わば便宜上の目安であり、したがって金額よりもプランの質を重視するタイプの方だからです。そうした方には、杓子定規に予算を遵守するだけでなく、予算を多少度外視したクオリティをお見せします。すると、逆に「私はこういうプランを見たかったんです」などと逆に感動してくださる場合が多いのです。私たちの仕事というのは、原則予算重視でありながら、そうしたパーソナルな見極めというものも重要になってきます。そして、その見極めがビジネスであり、顧客の満足にもなるという、双方が幸福な結果を生み出します。いずれにせよ、常識的な範囲内で全ては対応されていきます。

嫌、それよりも引っかかっているのは、デザインの方かな?私にはどう見てもあれが「マッハGOGOGO」に…。

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