勝つということの意味

株の違法取引で村上某が逮捕された。
勝ち組の末路などと取り沙汰されている。彼は何に勝っていたのだろうか。負け組は何に負けたのだろうか。おそらく経済的に裕福になったら勝ち、その逆が負けということだろうが、それが人生における勝ち負けの全てではない。「私はお金持ちになったから勝ち」などと思っているとしたら、そんなことでしか人生の価値を見出せないその人の人生こそが、負けの気がする。ところが実際、この国は経済格差の二極化が著しく進んでいる。

「中庸」(ちゅうよう)という言葉がある。今ではあまり聞かないが、中国の哲学から発生したこの言葉は「かたよらず常にかわらないこと」を意味する。頂点でも底辺でもなく「間」を良しとする感覚は、かつて日本人の心に美徳として根付いていた。その頃は、勝てなくても負けないでいられたから、勝利しなくても敗者であるなどと感じずにすんだ。再び中の上を、あわよくば勝ちに回るくらいのモティベーションは自然に持てた。適度に楽観的に日々努力をしてこの国は続いてきたのだ。ここ最近、急激に、子供たちが殺されている。麻痺してしまうほどそんなニュースばかりだ。事件の多くが「あなたは負けです。終わりです。」と社会に通告されてしまった大人達の転落のように見える。そんな社会はやはり狂っている。

我々の仕事は、家庭の器を創るようなものだ。だから自然と、さまざまな家庭観に触れる。
ある若い人がこう言った「40代、50代までは会社でバリバリ働いて貯えて、子供が自立したら後は二人で海外に家を買って自由に暮らしたい」。勝つか負けるかとか言っている時代に、果たしてそんな風にきちんと勝てるサラリーマンが100人中何人いるのか疑問だ。
しかしそれにも増して私が不思議に思ったのは、育ってゆく子供にとってのコミュニティの重要性をほとんど考えていないことだった。自分達の人生が一番楽しいのはこの場所ではない。ここは夫婦のステージではない。だからあまり深く考えたくない。・・・私はそれをとても利己的だと思った。親はいずれどっか行くのでしょう。
けれど子供はその土地で今まさに成長しているのだ。「隣近所はよく知らないし興味がないから、挨拶しなくていいよ」とでも教えるのだろうか?「第一、負けたらどうするの?勝ち逃げできないとわかった時に、親も子も、挨拶の仕方も知らず、仲間もいないその場所で、ただただ孤立する、それでいいの?」心にそんな台詞が浮かんだが、私は黙って聞いていた。

大人がどんどん利己的になってきている。
幸か不幸か、私は毎日の仕事で、新聞で、人との会話で、それを感じ、受け止めることができる。そして時に我が身を振り返ったりしている。勝てなければ負け、100か0かのような現象が進めば進むほど、立ち直れない親と閉ざされた家で育つ不幸な子供達が増えていくような気がする。
エバーグリーンホームは単に家族の器を創るにすぎないし、私は「家族とはどうあるべきか」などと演説するつもりなど一切ないが、何故だかそんなことも含めて施主様と語らうこともある。話題が、材料や工法に関してのことから、いつしか家族や心の問題に変わることが多い。そんな時、大人は不安を感じているんだ、自分だけじゃないんだ、と実感する。全ての大人が、自分自身に対して問題意識を持つべき時だと思う。