成熟した国は、命の重さを知っている。

人間である以上、命の重さは等しく同じはずです。しかし、そこに国家や民族性のようなことが関係すると、不思議なことに命の重さというのは変わってくるようです。命というものの捉え方に違いが出てくるのかもしれません。
スピードを競う、これは商品やサービスが世に出る過程でとても大事な競争です。しかし、スピードが確実性より優先すると、そこには歪みが生じます。ところが国民性によっては「まず世に出してみて、仮に上手くいかないことがあったら修正して出し直せばよい」という思考もあります。これはちょっと日本人の性にはあまり合わない考え方です。日本人は「多少の時間はかかってもいいから必ず最初から優れたものを出したい」という国民性があり、それゆえ今まで世界から信頼されてきました。だから日本人は、スピードが確実性より優先するという方向には行きづらい民族です。よく私たちは「なる早でお願いします」なんて言いますが、それだって早ければいいというものではありません。「なるべく早い方がいいけどそのために不具合が出てしまうものならいりません」という、やはり確実性が優位に立ったものです。
さて、コロナワクチンの開発競争が世界で繰り広げられています。言うまでもなく命に関わるものですから、何にも増して日本人は「確実なものでなければ取り入れない」という気持ちがあります。一方、そこまで厳密でない感覚の国もあるようです。「ある程度うまく行ったから世に出してみます」という見切りです。「うまくいかないことがあったら修正して出し直しましょう」という、日本よりはるかに低いハードルに思えます。だから日本人の私たちにしてみたら、そういうワクチンは「こわい」と思ってしまいます。おそらく私たちは、安全が一定値まで担保されたものが出されるまで待つ民族です。なぜか?それは、スピードより確実性を優先する、という意識の積み重ねがあるからです。
見切る国と、確実性を優先する国、その違いとは何なのでしょう?思うに、その国の「命の重さ」のように思えます。日本然り、ドイツ然り、スイス然り、速さと確かさのバランスを考えた場合、圧倒的に確かさの方を尊重する国があります。要するに、それが「成熟した国家」なのだと思います。一方、見切る国は、民族の分断を抱えていたり、人権が旧時代的だったりして、成熟しているとは言い難い問題を抱えているようです。そういった問題の一つ一つも、やはり「命の重さ」をどう考えているか、という点に起因しているように感じます。
日本はいつまで経ってもワクチンの開発競争でリードできない、情けない、という声があります。でも私は、それでもいいのではないか、と思います。どこかの国でワクチンができた、とします。けれど不完全らしいから、こわくて使えない、とします。そういったものに飛びつかないのが私たち日本人の成熟性だし、それらを踏み台にして気がついたら完璧なものをつくってしまうのが私たち日本人のグレートなところです。世界で最も命の重い国ではないかと思います。速くできたものに軽々しく飛びついたりしない。これからもそうありたいものです。