日本人が指導下手?

教育界やスポーツ界において、教える側の暴力の問題が頻繁に取り沙汰されています。

体罰は時と場合によっては必要です。わるいことをした人に、された人の痛みを感じさせるというのは、それが必要な時があるからです。目的が正当であれば、痛みを身をもってわからせることは、「しつけ」と考えることができます。良くないのは、正当な目的がない状態で拳をふるう時です。それは、体罰ではなく、暴力になります。
現在問題視されている人々は、なぜ暴力をふるうのか。その主な原因は、指導力の無さのようですね。自ら「教えるのが下手なタイプ」と公言するくらいですから。教師であれ、オリンピックのコーチであれ、教えることが苦手な人物が問題視されています。「口より手が先に出る」といったところでしょうか。
不思議なことに、日本は先進国の中で、指導力が著しく低レベルであるらしいです。どうしてなのでしょう。精神的な側面も、技術的な側面も、あらゆる面で優秀な民族であるのに、ものを教えるということにおいては、咄嗟に「口より手が先に出る」のです。不思議ですよね。

日本のコーチングにまつわる技術を標準レベルにするには、その中に暴力を無くすためのルール作りは欠かせないでしょう。ところが、そこで難しいのが、「しつけ」と暴力の線引きです。「しつけ」も含めて、手を出すことは全て暴力だと定義された場合、他人の痛みを感じさせるという正当な目的を持った「しつけ」も、手を出したら全てNGです。手を出す親が子供よりも心を痛めて行う「愛のムチ」も、絶対に駄目になります。・・・どうなんでしょう。そこまで画一的に線を引いていいものかどうか。とても難しい問題です。

皆さんも同じだと思うのですが、私も、周囲の多くの人間に対して、均等に、画一的に付き合っているわけではありません。相手が間違ったことをした時に、それを諭す方法というのも、相手を見て、相手の立場を考えて、行っています。長年親しい相手には、本音も交えつつ肩を叩いて(暴力ではありません 笑)諭した方が伝わりやすいと思うし、逆に、傷つきやすい繊細な感性を持った人には、その人の感性に近づいていって、静かに諭したりもします。言葉を選び分けたり、話し方を変えたり、声の大きさまで相手に応じて調節します。
当たり前のことですが、人が人に何かを教える時には、そういった多用性を日々使いこなしながら生きています。どう考えても、均等で画一的なコミュニケーションを全ての人にやっているわけではありません。

統一のルールというのをつくる発想は、一見、平等に思えます。しかし、これは実はとても非現実的です。AさんにはAさんへの教え方がある。BさんにはBさんへの教え方がある。それが現実だから、平等なんてあり得ないのです。

そう考えると、より高度な応用力をもった日本人ほど、画一的なルールを設けることは、なかなか窮屈に思えますね。かといって、それをしないでいると、いつまで経っても相手を見誤った身勝手な指導というものも、後を絶たないだろうし・・・。

道徳観念が変わっても、日本人のいいところは変わらないで欲しい。そんな風に思います。実はそれがいちばん難しいことだとは思うのですが。