知らない、ということ

時が経つのが驚くほど速い。そう思いませんか?私だけでしょうか?もう、びっくりするほど速いのです。
一週間に一度のテレビ番組が、まるで前回観たのは昨日だったような、そのくらいの時の速さを感じるのです。ひと月に一度会う関係者がいるのですが、毎回驚いています。「えー、もう一カ月経ったのか!?」と、こんな調子です。
こんな調子がこれからも続いたら、あっという間にお爺さんになってしまいそうだ。コワイです。

震災から半年が経ちました。
驚くほどたくさんの変化があったはずなのに、あっという間だったような気がします。半年も経ったような気がしないでいます。しかし、確実に時は経っているのですね。さまざまな情報が私の耳にも入ってきましたから。テレビや新聞で流すことができるものは、テレビや新聞を通じて。
しかし、真実というものはそれだけではありません。テレビや新聞では都合のよくない情報もあって、そういうものも含めて、全てがひとまとまりになって、「真実」です。真実は、時としてその人の将来を変えてしまうほどの衝撃を与えてしまったり、時には人に深い傷を与えてしまいます。
知らなくて済む、ということも、ある意味では大切なことなのかもしりません。

しかし、知らない、ということは、自己防衛する上では大きなマイナスです。「知らなかった、では済まされない」という慣用句があるように、一定の責任や地位を持ち始めた人間にとっては、あらゆることは知っていなければならなくなってきます。
責任が大きくなった人間ほど、真実はすべて把握していた方がよいということになっていきます。知らないでいるということは、落とし穴の気配を感じずに野放図に社会を歩くことに等しくなってきます。
若いうちは、いろいろなことを知らなくて当然だし、それでいい。けれども、いつかそうでなくなってくる時がやってきます。そういった知識や経験の差異があるから、社会というものは、上下や左右がありつつも、成り立っているのかもしれませんね。