経験した人と、しない人は、やっぱりした人が強い。

かつて、エバーで事務仕事を手伝ってくれていた学生さんがいました。彼女が深夜のフードショップでアルバイトをしていた時の話を聞いたことがあります。深夜のフードショップですから、多種多様のお客さんがお腹を空かせてやって来ます。中にはお酒を飲んだ帰りで相当に酔った人も少なからずいます。時間も深夜であることが彼らを調子に乗せるのか、セクハラまがいに店員である彼女をからかいます。どんなに無礼であろうと雇われの身である以上客に歯向かうことはできない。毎日が怒り心頭だったものの「とにかく耐えてきた」と言います。
教育学部だった彼女は卒業後に教員となりました。周囲の仲間たちである新人先生は、皆が皆、子供たちの両親からのプレッシャーに悩まされ、そのせいでせっかく先生になっても辞めてしまう人が多くいたといいます。
彼女はそんな時、こんな風に思ったのでした。「親御さん達からのプレッシャーなんて、あの頃深夜バイトで受けた仕打ちに比べたら、ぜんぜん何てことない」と。彼女は「あのバイトに、私、鍛えられました」と笑っていました。
人が、理不尽な扱いを受けたり、する必要のない我慢を強いられたりするようなことは、良いことではありません。しかし、それを経験として考えた場合、反面教師として社会を生きる上での強さになるのだろうと思います。
現在の風潮では、いかなる時も我慢をすることは良くない、という風になっています。それをコンプライアンスにして社会全体が遵守すべきとしていきたいようですが、それを万人に適用することは無理な話です。修行中の料理人が皿洗いが嫌いだとボイコットしたら厨房は成り立ちません。ろくにバットも振れない入り新入り野球部員がボール拾いを拒否したら野球部は成立しません。
否、むしろその皿洗いやボール拾いこそが、後のその人間の内面を磨いていきます。嫌であっても我慢し、乗り越えたという自信は、通り一遍のコンプライアンス下では得られないものです。人生の中で、日々の暮らしの中で、「嫌ならやらなくていい」ことなんてないはずですから。
「若い時の苦労は買ってでもせよ」という、今となっては原始時代のようなことわざがあります。若い時に積極的に困難な状況に挑戦し、苦労を経験することが、将来の成長や成功につながるという意味です。今さら、しかもこんな時代に、私の年齢のような者が言うことではありませんし、言うつもりはさらさらないですが…しかし、時代を超えた真理であるようにも感じます。