前に立つお年寄りに気持ちよく席を譲る人を見ました。とても簡潔な仕草で「どうぞ」と立ち上がり、その場からスマートに立ち去って行きました。譲られたお年寄りも感謝の気持ちをひきずることがなく、素直にその行為を受け入れて安心して座っていました。終始流れるような気持ちよさでした。それを見ていた私は「上手い」と思いました。見習うべきだと感じました。最近は難しいですね。席を譲ろうとしても、譲った後に自分がどう思われるかを想像してしまったりします。えばるつもりなどなくても、「えばってやがる」なんて思う人が周囲にいるかもしれない、なんて気にして居心地が悪くなったりして。いいことをしているのに、です(笑)。マナーがある、ということと、マナーを心地よく運用する、ということは、ハイクラスのセンスが必要になっています。それがうまくいくと、社会はとても気持ちが良いです。
一方、この正月、ネット上で「初詣ベビーカー論争」なるものが巻き起こりました。ことの発端は都内の有名なある寺が、ベビーカーによる参拝利用を自粛してもらうよう張り紙をしたことがきっかけです。これが広まるやいなやネット上では、「ベビーカーが社会の迷惑だと決めつけている」と騒ぎ、「だったら障害者も高齢者も全部遠慮しろ言っているようなものだ」と非難の声が溢れて炎上しました。実はその寺がこの張り紙をしたのには理由がありました。世の中には厚顔無恥というかどうしようもない人間がいるもので、混んでいる一般の参拝道を横目に、それに優先されるベビーカーの通路を、小学生にもなったような子供をいけしゃあしゃあとベビーカーに乗せて先を急ぐ無神経な者が出現するようになり、それでさすがに寺も見るに見かねて張り紙をしたらしいのです。彼らはなぜそんなことをしたのか?それは、ただ先を急ぎたいだけです。本当に馬鹿です。そういう人間が居たばっかりに、ベビーカー全体が悪人視されてしまいました。さてそんな寺側の憤慨は置いておいて、ネット上では論争が始まりました。「小さな子供がいる家族は初詣に行く権利がないのか?」という主張に対し「なぜ三が日のような混雑するような日に大きなベビーカーを引っ提げてやって来る必要があるの?第一そこに乗せられる子供の立ち場にしてみれば相当な恐怖でしょ?空いてからのんびり行けばいいんじゃないの?」と片や反発する側が出現し、議論は混乱しました。
社会の寛容さにつけ上がって自分勝手に振る舞う人間が現れると、マナーを守ることの根底が崩されてしまいます。そして、双方のかねてからの不満が根底にあると気づきます。つまりベビーカーのユーザーにとっては、周囲のベビーカーに対する寛容さの欠如(ベビーカーの迷惑性は理解して自分なりにマナーは守っているつもりなのに、なぜ周囲はもっと寛容に思ってくれないんだろう…という不満)。逆に、ベビーカーを取り巻く周囲の人々にとっては、ベビーカーが常に優遇されるようなファストパス的な位置付けへの疑問があります(ベビーカーの存在は問題ないが、それにあぐらをかいたことで現れてしまう甘えや、非常識な人間の非常識な行いが目に余る…という)。どちらの立ち場の気持ちも理解できてしまいますが、しかしお互いがそれを言い始めたら、マナーというものはどんどん不快なものへと向かってしまいます。
誰かがネット上で呟いていました。「神も仏もないな。何でそこでベビーカー排除になるんだろ。“混雑しているので、皆さん道を譲り合ってお参りください”じゃ駄目だったのか?」うん、私もそう思います。その通りなんです。しかし、ごく一部の人間がその心地よいマナーの空気を破壊してしまった。私有地を開放している寺は、相当に心を痛めたのではないか?と私は思います。傍若無人な態度が事故でも起こしたら、それも寺の責任にもなりかねません。「寺がなぜこれを書かなければならなかったのか?」その思いは複雑だったのではと察します。