然るべき人が評価される時代へ。

東京オリンピックが閉幕しました。たくさんの優秀なアスリートがしのぎを削り、見えないところではたくさんの技術者がそれぞれの分野でサポートをしてきたのだと察します。たくさんの現場ディレクター、たくさんのイマジネイター、たくさんのデザイナー、たくさんの施工者、皆がたとえ一瞬の出来事であっても最高の瞬間に仕立てようと頑張ってきたのでしょう。
しかし、現状の日本では、それらの貢献が仕事の末端を支えている技術者に評価や対価として反映されているかというと疑問です。オリンピックに限らず、この国の技術者の置かれた現状というものが浮き彫りにされたような気がしました。
報酬というものは上から下へと段々と中抜きされすぼまっていく構造なわけですが、この国ではその構造があまりに不自然になる段階があります。あからさまな時には一握りの権力者や権力社が途中でごっそりと抜き去ってしまいます。理不尽に思うことが多々あり、その下の者達はそれを理不尽と知りつつも目をつむって仕事を続けています。
しかし、そのことがもう世間的に通用しない時代に入ってきている、そんなことを今回のオリンピックでは考えさせられました。それをやってしまうと隠すことができない時代になったのだと。既得権者はかつてほど高利をむさぼるべきではないし、それは許されない時代になりました。その分しっかり働いた者に正当な評価や対価を分配すべきという真っ当な声が反映されるようになっています。
私達の業界であっても、その新しい解釈、というか正しい解釈が必要であることは例外ではありません。現場にいる、あるいは現場を管理監督する技術者というのが、実はその仕事の質の大半を握っているにも関わらず、いつまでたっても待遇が向上しないというのはそもそもの構造自体が矛盾していたからです。
このご時世で大工や職人になりたい若者は貴重な存在です。技術者が社会からの恩恵を得ていないことで成り手不足になっています。成り手がいなければおのずと層は薄くなり、おのずとレベルはダウンします。家はこれから先もずっと建てられていくのに、最も重要は技術者層がレベルダウンしてしまうのは悲劇です。そのためには、技術者への正当な評価を獲得するために、長い時間歪み続けてきた構造自体が変わっていかないとなりません。
「プロデュース料だか何だか知らないけど、あいつら何にも仕事しないくせにたっぷり抜いてさあ、いい身分だよなあ」なんて愚痴り酒を飲むような時代は、一生懸命働いている誰かが損をしている時代です。しかし、もはや今そんなことをしていようものなら世間は黙っていないようになりました。見えにくかった暗い部分を照らすことのできる、そんな時代に差し掛かったのだと感じます。