私たちがいる世界、それはこんな所なのだ、と知る。

「戦争犯罪」という言葉に違和感を覚えます。一般社会では相手がどんな人であろうと殺したら犯罪です。しかし戦争状態では、兵士が理由なく民間人を殺すことは犯罪と呼ばれ、兵士が戦闘状態で敵方の兵士を殺すことは犯罪とは呼ばれません。人を殺し合っている状況で、何が犯罪で何が犯罪ではない、とか、それって何なのだ?と思ってしまいます。
4年前の春、私はこのコラムであることを話していました。それは「お山の大将」のことです。私はその中であることを題材に「狭い世界で生きていることの怖さ」について思いを綴っていました。
「相手の気持ちを考えずに言いたいことを言い放ってしまう傲慢さ。それが通じない時に起こす子供のような癇癪。どうしてそうなってしまったのか。それは、その人がイエスマンに囲まれてしまっているからです。お山の大将だから、日常の中で誰も彼を止めることはなく、むしろ正しかろうが誤っていようが、さすがうちの大将だ、その通りだ、と周囲が持ち上げ続けるからです。」
私はそこに欠けているものを指摘しています。非常に大切なものが欠けていると。それは「外部」です。外部が欠落した世界だから異常になってしまうのです。
ロシア政府の蛮行は卑劣を極め、世界が非難を浴びせています。そうさせている動機は、自由主義である人々には理解しがたい思考があるからで、その閉鎖的な発想に正当性を感じることはできません。今までは覆い隠すことを前提として行われてきたことが、今ではできなくなっています。今までのやり方が通用できない事実に背を向けて延々とお山の大将の言い分をやり続けるしかない、それはあまりに外部を知らな過ぎます。しばらくは蛮行を繰り返し、嘘を繰り返し、相手のせいにし続けて、山にこもって自分たちが正しいことを叫び合うだけの彼らの状態は続きます。
今回の件で、私を含めて多くの日本人が、規格外のお山の大将が世界に存在することを切に実感しました。どんなに真っ当な理屈を並べたって、ある日突然そういう輩はどかどかと家の中にやって来て何もかもを(命までをも)奪っていきます。それが世界なのだ、と痛感しました。
惨劇はもう起こらないでほしい、と心から思います。未来を前向きに考えるなら、今回のことを前例として、何人かいる他のお山の大将は、自分の山だけを考えたら自滅するという教訓を痛感している、と信じたいです。未来に向けての救いに転じるよう、祈っています。