自分によく似た他人は好きですか?

「鬼滅の刃」面白いですね。子供だけでなく多くの大人たちが魅了されるというのも頷けます。
その魅力はやはり観察の深み、リアリズムにあると思います。世の中、善か悪か、白か黒かだけに区別できるものではありません。強いだけではいけないし、優しいだけでは物事は解決しないものです。そのようなことをこの物語はしっかりと表現していて、見終わった後に考えさせられるところがある。正解とは何だろう?と思わせるところに、同じく大ヒットした「進撃の巨人」にも通ずるところがあると感じました。
おそらく世の中の全ての事柄は、真っ白でもなく真っ黒でもなく、その間の中間調で成り立っていると思います。コンピューターのようにゼロかイチかのどちらかのようなものでなく、私たちの全ての行いは小数点がついた不確かなところにある。だからこそ夢もみるし、反省もする。相手の気持ちと完全に同化することはできないけれど、わかろうと努力することでその人と近づいたように思えて、幸せを感じたり、同情したりできる。それらは、私たちが不確かな中間調で生きているからなされていることです。
さて、「鬼滅」であれ「進撃」であれ、そのほか数多ある物語でも、そして現実の世界でも、私には嫌いなタイプの人物というのがいます。しかしよくよく考えてみると、そんな嫌いなタイプの人物にはだいたい法則があることがわかっています。それは、その人物が自分に似ている、という点です。私は、私に似ている人物が好きではないのです。つまり、私は本心のところで、私のような人間が嫌いなのです。そういう人間が目の前に現れると「ああ嫌だなあこういう奴」と思ってしまうのです。ある者は私利私欲に走っています。ある者は目先のことしか考えていません。ある者は本当に大切なものは何かを見誤っています。「わかってないなあ、こいつ」みたいな目線で観察しているのですが、よく考えてみると自分にそっくりな部分が見つかってしまいます。
そして、こうも思います。「こうはならないようにしないとな」と。自分の短所を目の当たりにするという感覚を、これからの自分を改めようとする感覚に変えていきます。架空の世界であれ、現実の世界であれ、自分によく似た人物に出会い、鏡を見てしまうような行為が、おかしな言い方ですが、私にとって大切な瞬間なのかもしれません。
まあ、世の中には、嫌いな人間を見て、簡単にその理由を「自分とは違うから」として片づけてしまうような人もいると思います。そう考えてしまうと、いつも「自分はちっとも悪くない」という結論になりがちです。なので、なるべくそうはならないように、私は、嫌いな人と自分の類似点を探すのかもしれません。